執着

過去の投稿より。
5年半住んだ家の引っ越しをしていたときに書いた文章です。

プラットフォーム:Facebook
投稿日時:2017年10月1日

たまたま、Appleのサイトに歴代iPhoneの写真が全て掲載されているページをみつけた。
そのページを眺めながら、ふと考えた。

2010年2月から、6年半もの間iPhoneを使っているが、
自分のiPhoneが何台目で、どの機種を使ってきたかがわからない。
唯一覚えているのは、最初に買ったのが3GSだったということ。
今使っているのがiPhone 7だということは、背面に刻印されているモデル番号をググってわかった。
ただ、一個前がなんだったのかすら、受信メールトレイをあさって購入履歴を見ないとわからない。

iPhoneを持つまで、つまりまだガラケーだった頃は、
少なくとも写真をみれば、自分が使ったことがある機種かどうかは判断できた。


5年半契約した、阿佐ヶ谷のシェアハウスを10月7日に解約するため、退去の作業をしている。

今年の3月から新居で妻と2人で生活をはじめたときに、阿佐ヶ谷の家から生活に必要な最低限のものだけを持ち込み、とりあえず暮らし始めた。
私物のほとんどを阿佐ヶ谷の家に置いたまま、6ヶ月ほど生活してみて解ったのは、
「人間、生きるために必要なものなど、ほとんどない」ということだった。
所有している全てのモノに対して、「これは必要だ」と思っていたのだが、そのほとんどが幻想にすぎなかったと気づいた。

昨日は、45Lのゴミ袋12個分のゴミを捨てた。
そうやって一つ一つ、モノをゴミ袋に入れていくたびに、そのモノとの思い出が蘇る。

この服は福岡でバンドをやっていた頃にステージでよく着ていたな、
このマッチは、あの時あの人とあの店に行った時にもらってきたものだな、
この名刺は、はじめて福岡で会社員をしたときのものだな、
このケーブルは、あの時出先でレコーディングの仕事の時にケーブルを忘れてしまって急いで楽器屋に買いに行ったときのやつだな、
この2m以上あるヘビのぬいぐるみは、あのコントで使ったやつだな、

などなど。
もし、このモノたちが、全部iPhoneのようにほとんど変わらない外見をしていたら、こんなに思い出もつまってないのだと思う。
そして、それらを捨てることが、こんなに苦しくなかったのだろうなと思う。

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