のーみそ

前回の続き。

前回の記事はこちら↓
「二種類の快感」

前回のまとめ
曲作りという「作業」は嫌いだったが、その周辺にある「満足感」や「達成感」があったから折れずに頑張ってこれた。
だが、それでも時々、心身ともに病気になってしまうことがあった。

今回ご紹介する記事は、2012年、当時30歳、つまり約7年前に書いたものです。
この時期は音楽制作の仕事をはじめて4年目で、案件数も増えてきており、さらに一本あたりのギャラもどんどん上がりだして徐々に責任も重くなり、
なおかつお笑いもかなり本気でやっていて(よしもとで芸人をやっていました)、そちらのほうもかなり忙しかった時期でした。

当時mixi内では、公開範囲を友人限定にして書いています。
ではどうぞ。


[タイトル]:のーみそ
[プラットフォーム]:mixi
[投稿日時]:2012年02月09日

今、頭の中が、ぐちゃぐちゃなので、思う事を思った順番で書こうと思う。

頑張れば絶対報われる。
それはわかっているが、報われた先に何があるのか。
なぜこれだけ環境や周囲の人に恵まれているのに、辛いのか。
上京したての頃は、喉から手が出るほど欲しかった環境なのに、まだ先があるのか。
いつまで、あと何年間、次につながる何かのために働くべきなのか。
遠い。
幸福までの距離が遠い。

時々、誰も俺を必要としないでくれ、と思う時がある。
自意識過剰だと言われてもハッキリと言わせてもらうが、必要とされすぎている。
その、嬉しいはずのコトが、時々、重荷としか感じなくなる。

やりたい仕事だ。
これがやりたくて、上京してきた。
本来ならやりたいコトだけやればいいはずだ。
だが、やってみてわかったが、簡単に取捨選択できるような甘い世界ではない。
「やりたくなければ断ればいい」と簡単に言えてしまうのは、フリーランスで生き抜いた体験のない人か、相当運がいい人か、俺より一つ次のステップに行けている人だ。
俺には、やりたくない仕事を断れない。
仕事にはそれぞれ、細かい事情がある。
そして時には、金より時間より重い、仁義がある。
仁義を貫けぬなら、生きる価値なし。戦う権利なし。

贅沢な悩みだとわかっている。
何度でもいうが、こんなに恵まれた環境はそうそうない。
やりがいはあるし、仕事を通して人として成長できるし、収入もそこそこ安定している。
そんなのはわかりきっている。
そんなところは、何周も何周も考えに考え抜いて、何度も何度も通過した地点だ。

あと、俺は、なぜこういう類の文を人の目に付くところに書いてしまうのか、とも思う。
自分でも分からない。
発散せずに、溜め込む事ができない。
辛い。もう、ただただシンプルに、とにかく今は辛い。
やりたい事が死ぬほどある。
もちろん、仕事全てがイヤなのではなく、中にはやりたい人とやる、やりたい仕事もある。
もう、どうしたらいいかわからない。

今月の11日に、今の家を出て、新居に引っ越す。
環境が変わって、気分も変わる事を祈っている。
いや、住居と気分が変わったところで、根本的な解決にはならないだろう。
何かもっと、根本に関わる部分を、変える必要がある。
シンプルに、もっとシンプルに。
取捨選択。
上では、取捨選択はできないと書いたが、取捨選択をできないと思う俺の感覚自体を、無理やり俺から剥ぎ取って、捨てる必要がある。痛みを伴ってでも。

俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
他の誰よりもそう思っている自信がある。
そして、イメージする力、思う力は、どんな現実をも凌駕すると信じている。
俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
俺は、ただただ、毎日を幸せに生きたい。
(後略)


…以上が、7年前の僕が書いた文章です。
たまらないですね。こういう記事を読み返すと、我ながらゾクゾクします。
最後の3回繰り返すところとか、イタい。イタすぎる。なんでここだけちょっとポエム調にしたんでしょう笑

振り返って解説しますと、
これはもう…自分で読み返してみても一発でわかるくらいアブねー時ですね。心身ともに、完全に限界です
で、それまではそれを超えるほどの承認欲求が自分をずっと支えていたんですが、それが満たされすぎて、心身の疲労のほうが満ち足りた承認を上回ってしまっている状態だと思います。
それが以下の一文から読み取れます。

時々、誰も俺を必要としないでくれ、と思う時がある。
自意識過剰だと言われてもハッキリと言わせてもらうが、必要とされすぎている。
その、嬉しいはずのコトが、時々、重荷としか感じなくなる。

また、責任や仁義といった、自分が決めたルールに自身が苦しめられているところも見受けられます。
この性質は、2019年現在でも自分の中に残っているので、生まれ持った性分なのでしょう。
今はこれをうまく利用して自分をコントロールしたりしてますが、それは別の話なので別の機会にするとします。

過去の自分が憧れていた自分のイメージ、そして周り人からみた自分のイメージと、
当事者である自分の状態のギャップにも悩んでいます。
勝手に、
「普通は音楽を仕事にすることだけで相当難しいのに、その状態である自分は、すなわち幸せな状態である。
幸せな状態であるのに、幸せだと感じられない自分はダメだ。どうかしている。贅沢病だ。天狗だ。」
という理論を打ち立てて、どうにか幸せだと思い込むために、「贅沢な悩みだ」と言い聞かせているが、まったくその効果がでていません。

そして、最も興味深いのは、以下の部分です。

何かもっと、根本に関わる部分を、変える必要がある。
シンプルに、もっとシンプルに。
取捨選択。

何かもっと、根本に関わる部分を、変える必要がある。
という発言からの突然の、
「シンプルに、もっとシンプルに。 」
という発言。これは、なんとなく辻褄があっているように見えて、今見返すとその後の「取捨選択。 」という言葉とも微妙につながっておらず、文中に出てくる突拍子もない言葉です。

今になって思うに、このときの自分は実は、
「仕事のバランスや責任感や仁義の件で悩んでいる」のではなく、
「物事をややこしく考えてしまい、シンプルに答えを出せず悩んでしまう自分の思考回路そのもの」について最も悩んでいたのではないか。
そして、そのことに頭で気づいていなかったのではないか。そんな気がします。

今なら、「自分の思考がシンプルではないので、シンプルに憧れているし、できるだけシンプルに考えるように意識している」ことまでを自覚しています。

とりあえず、分析はここまで。

次回は、この2つの過去の記事をもとに、考察と一般化をしたいと思います。


【追記】
続きを書きました。
「幸福度相対性理論」

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