炭水化物と甘いものを抜くダイエットをしています。
つまり、とにかく無駄なものは食べず、無駄な栄養はとらない生活といえます。
はっきりいって、地獄です。
そういった生活の中には、食べたいけど食べられないものがめちゃくちゃでてきます。
それを我慢し続けていると、
体感的に、現代日本社会にある「美味いもの」が、「炭水化物か甘いもの」である可能性は極めて高いということがわかってきました。
特に、間食と呼ばれるものについては、ほとんどが炭水化物か甘いもの、もしくはその両方のコンボです。
よく考えると、それはそのはずです。
まず、間食というのは、間に食べると書くくらいですから、本来食べなくていいのにわざわざ食べるものです。
ではなぜ食べるのかというと、美味いからであり、
美味いものは、炭水化物か甘いものの確率が高い、
…といった論理です。
いまはダイエット中なので、食べられないものが目の前に現れた時に、
「そっか…これは食えないのか…、これも食えないのか…、いやまた食えないのか」と、一つ一つの食べ物を強烈に印象に残しながら、決死の覚悟でスルーしつづけています。
そうやってスルーしていくたびに、「今まで、毎日毎日こんなに”身体にとって”無駄なものを食っていたのか…」ということに気付かされます。
普通に生活していたときは、ものすごい量の過剰な栄養を摂取していたのだと。
よく、炭水化物抜きダイエットをすると太りやすくなるからやめたほうがいい、と聞きますが、
僕が思うに、実はその表現は正確ではないような気がしています。
むしろ、ダイエット中における「栄養を吸収して身体に残しやすい状態」こそが正常で、
現代社会で日常生活をしている時は、「慢性的栄養過多で身体が栄養を吸収しにくくなっている状態」、つまり異常な現代社会の食生活に無理やり適応せざるをえない結果であり、そちらのほうが異常なのではないか?と、考えるようになってきました。
また、一日三食食べるというのも、文化によって刷り込まれた固定観念に過ぎないことに気づきました。
僕は現在一日一食生活ですが、ハッキリいって、慣れれば余裕です。
いままでは、文化によって「三食食べないとけっこうヤバい」と感じさせられていただけです。
皆様も是非、腹が減っているときに、真剣に自分や身体に問いかけてみてください。「そんなに辛いか?」と。
正直、現代社会におけるたった一日の中で感じる空腹の辛さなんか、タンスに小指ぶつける痛みの10分の1くらいです。
余裕です。実は全然辛くありません。
辛いなんて、幻想です。
僕がブログでここ最近何度も話題にする、習慣に洗脳されているだけです。
タバコ依存症と同じです。食うのが習慣になっているから辛いと感じているだけです。
こんなことをいうと、美味しいものを生み出すことに命をかけている飲食業界の方々へのディスだと言われそうですが、むしろ逆です。
僕は、音楽という、生命活動に対しては全くの無駄な事柄に対して命をかけてやってきました。
そんな僕ですから、
身体にとって無駄なものであっても、精神にとっては無駄ではないのだということは、言うまでもなく理解しています。
ただただ、そのすべてを理解した上で「無駄を楽しもう」というマインドで楽しみたい。そう思っているということです。
本来はたいして食う必要はないのだと認識した上で、食事を嗜好品ととらえて、食いたいから意図的に食う。
これはもちろんOKです。
でも、なんとなく三食食って生きてきたから、今日もなんとなく食う。
これはNGです。
「現代社会で普通に生きているだけで、煩悩に操られ、過度の暴飲暴食という罪を犯している」という認識をするだけでいいと思います。
かといって別に、罪を犯すなと言っているわけではありません。
美味いものを食べるのは、人間に与えられた特権です。僕も、常日頃から美味いものを食べたいと思っていますし、ダイエットが終われば普通に食べるつもりです。
僕は、ただただ真実や本質を客観的に知りたいだけなんです。
身体の限界はどのへんで、どれだけ栄養を摂取すべきか。どれだけ食わずに生きていけるか。
そして、人間がどれだけ罪を犯しているか。
蛇足になるかもしれませんが、精神も同じです。
どれだけ金と時間を使わずに幸福度を得れるか。
それを見つける実験を、一生かけて行なっているような、そんな気がしています。
せっかくなので、もう一つ根本的な部分の話をします。
なぜ僕が、自分の体を使って、どれだけ無駄を捨ててシンプルに生きていけるか?という研究実験を行っているのかについてです。
答えは、シンプルです。
資本主義というシステムに、日本に、地球に、限界が近づいていると思っているからです。
もう、限られたリソースを奪い合う椅子取りゲームで限られた人だけが幸福度を満たすような時代ではなくなると思っています。
幸せを体の外に追い求める時代はもうすでに終わりを迎えようとしています。
体の中に幸せ自家発電装置をつくらなければ、人類は終わりです。
何を大げさなことをと思うかもしれません。
また、この思想に共感する方であっても、「樋口一人の力じゃ無理でしょw」といったことを思う方もいると思います。
でも、僕が吐く言葉、僕の行動をみて何かを感じてくれた方々が、
それを誰かに何かを伝えて、それが普及していってムーブメントになったり、ムーブメントの後押しをする可能性は、十分にあります。
ムーブメントは、ドミノ倒しのようなものだと信じています。
僕のこの思想も、おそらく誰かから倒れてきたドミノです。それを、次に伝えていく必要があるのだ、と。
ハッキリいって、もう自分のことを自我だけで形成された個体だと思っていません。
自分が属する集団をより幸福に導くための一つのコマだという認識のほうが正しいです。
話がだいぶ飛躍してしまいましたが、まとめます。
病気になったときに、はじめて健康のありがたみがわかるといいます。
それと同じで、試しにいろんなものを失くしてみると、今まで見えてなかったものが見えるかもしれませんねというお話でした。
“炭水化物と甘いものを失って気づいたこと” への2件のフィードバック