iPhoneの調子がおかしいことから労力と記憶の関係性について考える

iPhoneがおかしいです。
動きがめちゃくちゃ重いです。
slackやGoogelマップが開きません。

スマホの調子が悪いと、本当に気分が安定しません。
あきらかに依存して生きていると言えます。
視力が悪いのに眼鏡をしてる感覚や、匂いが全くしない感覚や、
水の中のように音が聞こえない感覚に近くなります。

あるいみ、スマホはインターネットという世界から僕らに情報を取り出してくれるという意味でインターフェースであり、つまるところ、目や耳や鼻と同じ感覚器なのかもしれません。


ということで、iPhoneを買い換えようと思いたち、ふと前回機種変したのがいつだったのかを思い出そうと試みたものの、全く記憶の奥底から取り出すことができませんでした。
Gmailの履歴を検索すると、どうやら2017年3月22日に銀座のアップルストアで購入していたっぽいです。

これをみたところで、やはり全く記憶にありません。
そもそも、なぜAppleのサイトで購入するんじゃなくてわざわざ銀座の店舗に足を運んだのかも覚えておりません。

そこで考えました。
もしかするとこの現象はiPhoneに限ったことなのかもしれませんが、
「購入時に体感的に大きな変化がない」ことが原因である気がします。

いつも触っているタッチスクリーンの中の見た目が、ほとんど変わらないんです。
これはある意味、機種変をシームレスに行うことができ、データやアプリの引き継ぎが優秀ということを意味するので、褒められるべき点なんですが、
「手間がかからない」ということがもたらす”いち現象”として「記憶に残らない」という副作用があることになります。

手のかかる子供ほど、愛着がわくという話もあります。
僕らはいつも便利に便利になっていくことを望みます。
もっともっと全てが便利になっていくと、全てに対して愛着が失われ、全ての記憶が残らなくなる日がくるのでしょうか。
そうなったとき、僕は、身体という物質を捨て去り、脳みそだけになって溶液の中に浮かんでいるかもしれません。

それはそれで、良い未来かもしれないなと、思いました。

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