先日、とある仕事仲間と話していて、「友達って何人います?」という話になりました。
しかし、当たり前なんですが、「友達」の定義を決めないことには数えることができません。
Facebookのフレンドなら、2000人以上います。しかし、この方々が全員「友達」かというと、そういうわけではない気がします。
あぁでもない、こうでもないと議論しているうちに、
「特に用事がなくても会ったり電話したりする関係」という定義はどうだろうという話になり、一旦はこれで落ち着きました。
そして、なんとなく会話が終わろうとしたところで、ふと気になって、
「僕や、僕の部下の青柳のことは友達だと思っていますか?」と聞いてみました。
すると、即答で
「友達ですね」
と返ってきました。
しかし、その方は仕事仲間であり、「用事がなくても会ったり電話したりした」ことはありません。
つまり、先程決めた定義だと不十分なわけです。
ここでふと、あることに気づきました。
それは、
「僕ら大人は、本当は友達とただただ話がしたいだけなのに、それが言いだせないから、あの手この手で理由を付けているだけなんじゃないか?」
ということです。
たとえば前述の仕事仲間の方は、月に1〜2回ほどの頻度でお会いしてるんですが、
仕事の合間に飯にいきますし、仕事で田川に来てもらったあと、その流れでいいかねPaletteに一泊していただいたこともありますし、年末には忘年会と称して飲み会を開催しました。
なんなら、彼と仕事を続けている理由は、彼と話がしたいからであり、彼と話がしたくないならその仕事自体受ける必要はありません。
この状態は、もはや「友達」といってもいいはずです。
なぜわざわざ、「仕事」という建前をつけるのでしょうか。
もっというと、「飲みに行きませんか?」や「お茶しませんか?」という誘い文句も同様です。
目的は、やはり「会って話がしませんか?」のはずです。
なぜストレートに「会って話がしませんか?」と伝えることができないんでしょうか。
それはおそらく、話をすることが目的になった場合、「話をして相手が退屈してしまった場合の責任を誘った側が一手に負ってしまうから」ではないでしょうか。
「飲みに行きませんか?」といって誘った場合、建前上は「酒を飲むこと」が目的なので、酒を飲めばお互いの目的は達成されています。
お互い、お金さえ払えば、その時間が価値がないものになることは有り得ません。
その上で、話が楽しければ、オプションとして追加されるプラスアルファの価値として計上されるわけです。
これは、相手が忙しい人であればあるほどその状態がさらに顕著になる気がします。
実際僕にも会って話がしたいだけの人は何人もいますが、そういう人に限ってだいたい忙しいので、何かしら理由をつけるしかありません。
ときには「仕事の話をさせてください」と言い、時には「経営が不安なので相談させてください」と言い、時には「Paletteにアドバイスがほしいので一度田川に見学にきてもらえませんか」と言います。
誤解のないようにいっておくと、
ストレートに「会って話がしませんか?」と伝えるべきだ!
…という啓蒙活動をしたいわけでは毛頭ございません。
僕らは――とりわけ日本人は、「そういうものだ」ということに気づいた、と。
そう伝えたかっただけなんです。
以上です。
うまく伝わったかどうかわかりませんが、
もし本件についてもっと詳しく聞きたいと思っていただけたのであれば、
ぜひ、僕に「会って話がしたいです」とお伝え下さい。
実際にお会いできるかどうかはわかりませんが、とりあえず、喜ぶとは思います。