妻のコーヒーカップを割ってしまったときに、感情は成果を出すためのツールではなくただそこにあるものだと思った話

僕が家で使っているコーヒーカップは、結婚前に妻が買ったものでした。
陶器でできていて、色も質感も気に入っていました。

ある日、手が滑ってコーヒーカップを床に落として割ってしまいました。

「わっ!」と大きな声を立てた僕に気づき、「どうした?」と近づいてきた妻に、
まずは謝りました。
借りていた妻の私物を割ってしまったわけですから、当然です。
それに対して妻は、
「ぜんぜんいいよ、しょうがないしょうがない」
とフォローしてくれました。
しかし、それでも僕は落ち込んでいました。
そんな僕を見て再度、
「たしか同じやつがもう一個あったと思うから、それ出せばいいやん。気にしたところで割ったものは戻らんし。」
と、さらにフォローしてくれました。

しかし、僕の気持ちはしばらく晴れませんでした。


なぜ、妻がここまで許してくれているのに、気持ちが晴れないのだろうと考えてみました。

結論から言うと、それはおそらく、
「感情は成果を出すためのツールではなく、ただそこにあるもの」だからだと気づきました。


妻のセリフの最後の一文は、正しいです。
「気にしたところで割ったものは戻らない」です。
ただ、その時の僕は、
「割ったものを戻すために気にしているわけではなかった」のです。
気にすることに、メリットはありません。だから、気にしなくていいです。
でも、気になっていたのです。

ここで気づいたのは、感情は成果を出すためのツールではないということです。

さらにいうなら、僕は妻に対してだけ気にしていたのではありません。

たとえば、隣人が旅行に行くからと預かったペットを、僕の不注意で死なせてしまったら、そりゃあへこむでしょう。
それと同じで、僕はモノに対して感情移入してしまう性質なので、コーヒーカップを自分の手で死なせてしまったことに落ち込んでいたのです。

もちろん、人も、モノも、いつか現状から卒業します。
そのことを、「死」や「壊れる」と表現します。
それ自体は、悲しいことではなく、ただ次のステージに行っただけだと言えます。
でも、やはりそれを自分の手で強制的に行ってしまったことに、落ち込みます。
効果や結果を求めているわけではないんです。
ただただ、そう僕の頭にそういう感情が巻き起こるという現象が発生しているだけなんです。


そんなこんなで、
「妻のコーヒーカップを割ってしまったときに、感情は成果を出すためのツールではなくただそこにあるものだ」と思ったあと、さらに
「感情は、この世に物質として実在せず、誰の目にも見えないのに大きく世界に影響を与えるという意味で、魔法のような存在だな」と思ったという話でした。

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