究極の贅沢

今朝、息子の虎之介を保育園に送り届けたあと、
「さぁ家に帰って仕事するか…」と徒歩10分の帰路についたところで、ふいに思いっきり何の生産性もない時間を過ごしたくなって、帰り道にあるスタバに入ってみました。

もちろん、すぐに帰るつもりだったので、パソコンなどを持ってきているはずもなく、
手にはベビーカー、ポケットにスマホがあるのみです。
つまり、現在溜まりに溜まっている仕事を処理することはできません。

席に座り、ぼーっと何もせずに、息を吸い、吐く。息を吸い、吐く。
コーヒーを飲む。
また、息を吸い、吐く。
この時間が、「信じられないくらい贅沢だ」と思いました。


以前、「暇がない」という記事を書きました。

やりたいことがずっと行列をなしていて、ずっと何かをやっている感覚です。
仕事をしていないときであっても、
家族と過ごす貴重な時間にあてたり、
見たくて見れてなかった動画を見たり、記事を読んだり、
スマホでネット将棋をさしたり。

とにかく、普段は「やるべきこと」か「やりたいこと」、どちらかでずっと時間が埋まっています。

そんななか、急に思い立って飛び込んだスタバでの数十分。
はっきりいって、「時間を捨てている感覚」が、それはそれはたまらなく快感でした。
時間は、命と同等です。命を、効果的に使わず、あえて無駄遣いするなんて、
貴族の贅沢な遊び以外の何物でもありません。

あえて書くまでもないと思いますが、
温泉旅行とは無駄遣いのレベルが違います。
温泉旅行は、積極的に「癒やす」という目的のために、わざわざスケジュールを空けてる時点で、決して命の無駄遣いじゃありません。りっぱな「保養」という効果的な時間の使い方です。

それに比べて、ノープランで飛び込んだスタバは、時間と金を完璧に無駄遣いしてるわけです。

誰からも侵害されない絶対的な自由時間。
僕は、その感覚を知っていました。昔、全く同じような感情になったことがある場面を急に思い出したのです。
それは、「小学校の運動会の代休の日」です。

運動会の代休は、月曜日でした。
両親が共働きだったので、昼間はいとこの家に預けられました。
そこで、朝から夕方まで、ずっとファミコンをしました。
普段は、せいぜい長くて1日に1〜2時間程度しかファミコンをさせてもらえなかったんですが、
平日の昼間は大人不在の状況なので、誰からも何も止められません。
そこで感じた、絶対的な自由。
学校はもちろん、公文式からも、そろばんからも、水泳からも、ソフトボールからもピアノからも、全てから解放された、無責任な時間。
何一つ背負わず、何一つ罪悪感を持つ必要もない。
現世のあくせくした日常とは遠くかけ離れた、まるで極楽浄土にいるような感覚。

…それと似た感覚を、約30年ぶりに強烈に思い出しました。


この感覚…どれだけの人に正確に伝わるんでしょうか…。
いや、もしかして、サラリーマンをやってる皆さんのほうが、もしかしたら日常的な不自由さを感じているんでしょうか?
比べてみたことがないので、よくわかりません。

究極の贅沢” への2件のフィードバック

  1. すばらしい時間でしたね
    生き返ったような感覚でしょうか
    私も、時々、人生が終了(要するに死んでから)の長い時間について、その時間を生きている間に少しだけ味わっておくのも、混ざって良いかなと思うようになりました
    それでは失礼します

  2. 樋口社長、この感覚は人生でなかなか感じられない時間ですね。
    サラリーマンは、こういった時間を退職寸前のどうでもよくなったタイミングでしか感じられないと思います。

    私の人生でも、そんなに感じられた瞬間はありません。
    完全に無責任な時間。普通なら、周囲へのフォローなど気を遣わなきゃいけない事が多いのですが、一人でも上司のいる立場だと、ほぼ確実に↑↑↑の状況でないと無理だと思います。

    実体験からの投稿でした。

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