期待と怒り

14年前、台湾に行った時の話。

夜中に小腹が減ったので、なにか軽く食べるもの買うためにコンビニに行きました。
レジの横にある透明なショーケースの中にあるフランクフルトが旨そうだったので、
台湾人の店員に話しかけ、指をさし、注文しました。

店員は、トングでショーケースの中のフランクフルトを掴み、紙に包んで僕に渡そうとしたのですが、
手が滑ってしまい、フランクフルトが床に落ちてしまいました。
そのあとその店員は、あろうことか床に落ちたフランクフルトを再度トングで掴み、
何事もなかったかのように紙に包んで僕に渡してきました。

その一連の行動があまりにスムーズで淀みなく堂々としていたので、
店員に対してクレームを言うタイミングを失った僕は、
素直にお金を払ってフランクフルトを受け取りました。
そして、ホテルへの道を歩きながら、同封されていた紙ナプキンでささっとフランクフルトの表面を払い、
パクっと食べてしまいました。


想像してみてください。
これが、日本のセブンイレブンで、日本人の店員によって行われていたとしたら。
おそらく、ブチ切れてクレームを入れていると思います。

では、なぜこのときは、怒らずに受け入れてしまったのか。
それはおそらく、うまれてはじめて訪れた台湾で、
「台湾だとこれがデフォルトに違いないから、外国人の俺は台湾の文化に従わないといけない」
という思考回路になっていたからだと思います。


同じような例をもう一つあげます。

僕は、公共の場で堂々と抱き合ったり、キスをしているカップルをみると、
遠くからサバゲー用の電動ガンで打ちたくなります。
できれば素肌が露出しているところを狙って、肌表面へのダメージを与えたくなります。

しかし、ムカつくための条件があります。
それは、「イチャついているカップルのどちらか一人が日本人」であり、
かつ、「イチャついている場所が日本国内の公共の場所である」ということです。

つまり、どちらとも外国人の場合はムカつきませんし、どちらとも日本人だったとしても、海外だったらムカつきませんし、日本国内であったとしても、夜景スポットのような、いわゆる「そういう場所」であれば問題ありません。


この2つの例から、人が「ムカつく」のはなぜかと考えました。
すると、僕なりに一つの結論が導き出されました。

人がムカつくとき。それは、「期待を裏切られたとき」です。

例を振り返ります。
まずは1つめの例。
コンビニ店員が日本人だった場合、僕は期待してしまうと思います。
「日本人だから、普通に考えてお客さんに失礼なことはしない」と。

だから、それを裏切られると「怒り」になります。

それに比べて、相手が台湾人だった場合、
「台湾人だから、日本とは感覚が違うのだろう」と思っていました。
つまり、そもそも日本ではあたりまえのサービスの質を期待していなかったということです。

2つ目の例も同じです。
「日本人たるもの、公共の場所で堂々といちゃいちゃするべきではない」という僕が勝手に作った前提があり、それを期待しているわけです。
それを裏切られると、怒りになります。

そう考えると、怒りとは、自分の心が勝手に作り出しているものだと言えます。
そもそも、前提がなければ、期待もせず、怒りという感情は起こりません。

ここまでは分かります。ここまでは十分頭で分かった上で、やっぱりそういうことがあると怒ってしまうわけです。
でも、正直なところ、それはある程度しょうがないことだとも思っています。
悟りを開いた一部の限られた聖人ならわかりませんが、
凡人の僕は、いつも前提の中で生きていて、何かを期待しているという状況から、簡単に抜けられません。

でも、今の僕に出来ることはあります。
それは、怒った時に無意識に感情に任せて怒るのではなく、
「あぁ、今俺は、相手に対して◯◯という期待をした上で、それを裏切られているから怒っているのだな」と冷静に認識する自分を上のレイヤーで監視させた上で怒ることです。

怒るという感情は決して不必要な感情ではなく、捨ててはいけないと思っています。
あくまでも、怒りを「消す」のではなく、怒りを「マネジメント」する感覚です。
“怒り”に踊らされることも、支配することもなく、適度な距離を保ちつつ、上手く付き合っていきたいです。

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