今日は、2013年に書いた文章をご紹介します。
当時、森美術館で開催された現代アーティスト・会田誠の個展『天才でごめんなさい』を見に行きました。
基本的に作品を撮影するのは禁止だったんですが、出口周辺にあった『考えない人』という作品のみ、写真にとってSNSにアップしてもいいということでした。
せっかくならと、おもむろにポケットからスマホを取り出し、カメラアプリを起動した瞬間に僕がふと思ったのは…
そんな体験をもとに、僕が”作品”を作りました。
っていうポストです。
とりあえず、読んでみてください。
[プラットフォーム]:Facebook
[投稿日時]:2013年03月27日
俺も作品創った!
【考えない人】
作:樋口聖典
http://bit.ly/YCDzDU
会田誠展で唯一撮影可能だった作品『考えない人』の写真一覧。
思い出に残そうとiPhoneを構えた時にふと、「今どき、ネット検索すれば様々なアングル、機材で撮影された写真が山のように出てくるはず。あえて自分の手で撮影する事に何の意味があるのか。」と疑問に感じた経験が本作品の動機になっている。
厳密にいえば、一覧で出てくる写真は全て日時も、その場にいる人も、気温も違うはずだが、写真として空間を切り取った場合、それらの周辺情報は全て無意味なものとして破棄される。
そもそも、思い出として写真を撮る場合、それらの周辺情報は意味を持たない。
記憶とは何か、情報とは何か、編集とは何か。
本作品において、一切の作者のオリジナリティ(あえてここではそう言わせていただく)が存在しない。既存のシステムで、他者の写真を表示したのみである。
だが、そもそも芸術における真のオリジナリティは存在し得るのだろうか。
強烈なオリジナリティを感じるであろう作品はすべて、自然界もとより存在する造形、作者の過去の原体験、他者からの影響、既存の技術、その他諸々の組み合わせ、公倍数に過ぎないのではないか。
そういった、オリジナリティに対する作者の考えも垣間見ることができる。
また、検索の結果は時間を経て変化していく。これは、本作品が半永久的に完成しない事を意味する。
完成とはすなわち、死である。
つまり、画像検索エンジンが消滅しない限り、本作品は形を少しずつ変えながら生き続けるのだ。
さらに、どんなものでも視点を変え、編集を施せば芸術へと昇華されるという視点と、現代アートとは所詮詭弁なのではないかという冷めた視点の狭間で苦悩しつつも、あえて結論付けず、その混沌さえも作品に込めようとした作者の意図も浮かんでくる。
『考えない人』を、『考える』ことで別の作品として二次利用した、ある種のメタ構造を内包する作品。
以上が、6年ほど前に投稿した文章です。
当時はもちろん、インスタなんてものは全く流行っていませんでした。
今は、インスタ映えという言葉がもう死語になりつつあるほど、自分で観光スポットや飲食物の写真を撮り、アップするのが当たり前になりました。
僕は記憶力が本当に欠落しているので、思い出に残すために一応写真は撮っておくんですが、いつも疑問に思います。
このアングル、この天気、この色味の写真なんて、ハッシュタグで検索したらナンボでもでてくるよなぁ…。なんでわざわざ俺が撮影する必要があるんやろ?と。
似たようなシチュエーションで、集合写真ってのがあります。
僕は、友達同士の集合写真を撮るときに、撮影してくれる人が「私のケータイでも撮ってください!」「僕のでも!」と言われておびただしい量のスマホを渡され、一台ずつ順番にシャッターを押させられている様子を見ると、
控えめに言って、虫唾が走ります。
なぜ、代表者のスマホ一台で撮影したものを後でシェアして貰うっていう方法をとらないんでしょうか?
撮影者の方は、自分が写真に一切映ってないんです。それなのに、親切心でカメラマンを担当してくれてるんです。
そんな心優しい人に対して、あとで写真データの受け渡しをするっていう手間を惜しんで、「私のケータイでも撮ってぇ〜!」とか、どのアホ面下げて言えるんでしょうか。
しかも、集合してる側目線でいうと、カメラを向いてポーズをとっている時間なんて、ただただ苦痛でしかありません。
あの時間が心地よくてずっと続いて欲しいという人はこの世に一人もいないでしょう。
それを踏まえた上でなお、記念写真を残すことに価値があるから、いやいやながら、仕方なく、パーソナルスペースなんて全無視で狭い空間にギュウギュウに詰められることも我慢して、あの苦痛な時間を捧げてるんです。
それなのに、「あとでデータを送ってもらうのが面倒」っていう、個人の自分勝手な理由だけで、その場にいる全員の時間を搾取しようとする人がたまにいます。
もう、犯罪です。
泥棒です。
自分のことしか考えてない”ヤカラ”です。
少々、怒りの感情が強くなり、本題とブレてしまいましたが、つまり僕がいいたいのは、
みんなが同じような機種で同じようなアングルで同じ物をとることは、
世界全体レベルで見たときに非効率的だし無駄なので、辞めたほうが良いですよってことです。
でも、僕は知っています。
たとえ、ほぼ誰かと同じ写真しか撮れなかったとしても、自分の手で撮った、もしくは自分の意志で撮ってもらった、というストーリーが価値を産みます。
そういった価値観が存在するということは知っていますし、その感情を全否定することは僕にはできません。
くやしいですが、結局、否定できないんです。
なぜなら、僕自身、頭では全否定していても、心ではその気持ちが全くわからないというわけではない…からです…。