自分の命の時間を何に対して燃やすべきかを考えるときに、「マネタイズ」とかいうダルい判断基準を含めないといけないのが超絶ダルいです。
ただ、マネタイズできない活動はそもそも価値創造できてないオナニーである場合が大多数です。
そういった意味では、マネタイズの結果が評価スコアの役割を果たしていると言えます。
つまり「マネタイズ」スコアは、ちゃんと社会的評価が低い活動が自然淘汰で消えていくエコシステムを構築する上で有用だという捉え方もできます。
こう考えていくと、「マネタイズできるかどうかは常に結果論」である社会が美しいと言えます。
マネタイズを前提にして事業を計画すると、自然淘汰システムにノイズが入ります。
例えるなら、本来教育とは教養を身につけるためにやることであり、テストの点はその習得度の評価に過ぎないはずが、
目的が逆転し、「テストで点を取るためのハック」が出てきてしまい、本末転倒になっている状態に近いです。
せっかく全人類がよってたかって「人類にとって誰がどんな活動をするのが最も美しいか」という検証実験をしているのに、
マネタイズ目的の個体が混じると、実験結果が濁る気がするんです。
そんなことをぼーっと考えていると、
自分の活動の価値を自分で値付けすること自体がおこがましいとすら思ってきました。
世の中、寄付と投げ銭だけで回るようになったらいいんでしょうね。
そんな日が来るのは、遠い未来になりそうですが。