断捨離の行く末に

ある時期から、なるべく所有物を減らそうと心がけるようになりました。
そうやって僕が所有する物質を極限まで手放し続けると、最後の最後に残るのは肉体でしょう。

ということは、肉体を手放すことができたとき、やっと僕の断捨離が終了するということになります。


ブッダ、キリスト、ムハンマドをはじめ、
永い時の洗礼をうけ、思想を世界中にバラ撒いた諸先輩方の思念は、
中央集権型サーバー管理ではなく、オープンソースであり、
かつブロックチェーン的に世界中の人々の遺伝子に分散して組み込まれています。

さらに、その時代の言語や文化の影響をうけながらベータ版を更新し続けていると考えると、もはや、たとえ肉体がなくても生きていることと同等と言えるかもしれません。


対して、「いやいや、ベータ版アップデートは本人たちの意思が反映されてないやろ。死んでるんだから」
というご意見もおありかと思いますが、
個人的には、そもそも生きている今でも、僕自身の頭で考えているといった気がせず、
すべての結論が、ただただすべての環境によって考えされられて自動的に結論づけられており、
その状態をまるで”自分で考えて結論を出した”かのように思わされているだけだと思っています。

なので、生きていても、死んでいても、ある次元からみるとあまり大差ないんです。

もちろん、感情を持ついち個体としては、決して死にたいと思っているわけではありません。
しかし、一つマクロな視点――つまり全人類の集合知という視座に立って俯瞰すると、
僕が生きているかどうかなんてことは、とるに足らないことに思えて仕方がありません。

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