先日、息子の虎之介と遊びに公園にでかけた時の話です。
その公園には高台があり、階段で登っていくつくりになっていました。
下から見上げたときに、右手にはコンクリートできれいに舗装された階段が、
左手には舗装されておらず、土がむき出しの斜面に丸太を打ち付けて作られた階段がありました。
写真を添付しておきます。
高台に上がる行きみちは、コンクリートの階段で虎之介と一緒に登っていきました。
僕が「こっちいこう」と虎之介に呼びかけ、先に階段を駆け上がると、虎之介は僕のあとについてどんどん上がってきました。
その後、高台に設置されていたすべり台で十分遊んだあと、高台からおりる際に、
せっかくだからともう一つの階段、すなわち土と丸太の階段で降りていきました。
僕が先に降り、階段の下から虎之介を呼んでも、一向に降りてこず、階段の途中にしゃがみこんで何かを見ています。
虎之介に近寄り、何を見ているのかそっと覗き込んでみると、そこにはダンゴムシがいました。
「ダンゴムシいるねー」と一人でブツブツいいながら、興味深そうにしばらくダンゴムシを眺めたあと、飽きたのか、おもむろに立ち上がり、また階段を降りていきました。
すると、5段ほどおりたあとにまた急にしゃがみ込み、今度は
「アリ、おっきいね」といいながら、同じように地面にいるアリを眺めていました。
また立ち上がり、降りていく途中に、こんどは葉っぱを拾い上げ、「葉っぱ、葉っぱ」と楽しそうに手にとって遊んでいました。
大人は、階段のことを、「高低差のある場所への移動を行うための構造物」として認識しています。
つまり、階段とはただの移動経路です。
しかし、虎之介にとっては、それそのものが世界なわけです。
目的によって編集されておらず、また、階段は階段という機能でフィルタリングされず、物質そのものとして未編集のままそこに存在しています。
そういった視点で先に挙げた2つの階段を並べた場合、コンクリートの階段と丸太の階段では、情報量に圧倒的な差があります。
さらに、丸太の階段は時間の経過につれて刻一刻と姿を変えていきます。
さっきまではダンゴムシがいたが、今はいなくなって葉っぱが落ちている。
これが明日になるとタンポポが咲き、秋になると落ち葉の色が赤くなっていく。
極めて豊潤です。
しかし、ではコンクリートの階段の情報量が最も小さいのかというと、そうでもありません。
3D空間にCGで作った階段に比べると、微妙に一段ごとに表面の模様、質感が違いますし、
一見直線だと認識しているものであっても、近づいてよくみると微妙にデコボコしてたりします。
世界をどういった解像度で捉えるかによって、同じものでも受け取る情報量が全然違います。
人によって、同じ経験をしていてもインプットの量が違ってくるということです。
インプットの量の多さの是非はわかりませんが、そうであることをちゃんと理解しておく必要はあると思います。