仕事のクオリティーコントロールについて

コンテンツ制作を仕事にしている人、できている人は、基本的にクオリティーに対して妥協しない方が多いです。
僕も、音楽制作を仕事にしているときは、そちら側の人間でした。

ギャラが1万円の仕事でも、200万円の仕事でも、それが世に出るときは、僕の名前で出るわけです。
例えばギャラが安いからといって手を抜いて作った作品が誰かが聴いたとして、
「樋口が作った曲、ショボいな」
などと思われると、最悪ですし、
何より、相手にとっても、クオリティーが高いほうが喜ばれるに決まっている、と。

僕は、この考えが正しいと思ってずっと仕事をしてきました。
しかし、ある方からこんなことを言われたことがあります。
「樋口さんは、どんな場合でも全力投球なので、小さい仕事を頼みにくいんですよね」
って意味のやつです。相当要約してますが。

この言葉には、目からウロコが落ちました。
僕の中では、どんなに規模が小さくて安い仕事でも最高のクオリティーを叩き出すことが誠実さだと思っていましたし、
世界にとってそれが正しいことだとも思っていました。
しかし、結果的にそのこだわりがオーバースペックになり、そのクオリティーのオーバー分が、相手に対して「申し訳なさ」を感じさせ、
気を使わせる結果になっていたということです。
こうなってしまうと、タダの過剰サービスの押し売りです。

「どんな時でも全力投球したい」というのは、クリエイター側が自分のブランドを守るための勝手なこだわりであって、クライアント側がそれを望んでいるかどうかは、実は関係ありません。
もちろん、望んでいるのであれば需要と供給が一致してるので問題ないんですが、
もしかすると、質よりもスピードや制作フローの単純さを望んでいるかもしれませんし、
なにより、「オーバースペックな仕事をさせてしまって悪いことしたな」と、場合によっては無駄なストレスを感じさせることすらあります。


もっと身近なシーンで説明します。
新宿に、僕がよく行っていた整体マッサージ屋がありました。
そこのお兄さんが、とにかく愛想が良くて、常に笑顔で明るく接客してくれる方でした。
それはもちろん気持ちのいいことです。
ただし、会計が終わり、軽くお礼を言い、店を出る際に、毎回必ず外に出て、姿が見えなくなるまでお見送りをしてくれていました。
ハイ。
本当はこんなこと思いたくないんですが、僕は、これだけはどうも苦手でした。

その店は、まっすぐ伸びた見通しが良い大通りに面していました。
ということは、完全に僕の姿が消えるまでお見送りをするとなると、2〜3分はかかってしまいます。
僕は、その2〜3分の間、後ろに視線を感じながら歩くことに耐えられませんでした。
なので、特に買いたくもないコンビニの前で振り返り、整体師のお兄さんに軽く会釈をしてコンビニに入る…ってのを毎回やってました。
正直、店を出るときに、店内で挨拶を済ませてくれたらどれだけ精神的に楽だったか、と思います。


誤解のないように言っておくと、
「仕事に対して、全ての人、全ての場合で、ちゃんとクオリティーコントロールをして、安かろう悪かろうを意識すべき」
とまでは、乱暴なことを思っているわけではないです。
自分のブランドやこだわりを守るということは食って行くために大事ですし、それ自体はもの凄く素晴らしいことですから。
ただし、場合によっては、

「質の良いモノやサービスを提供することだけが貴方にとって心からの幸せではないかもしれません。
それを分かっていながら、自分を守るためにクオリティーの担保をさせていただきます。
ワガママを言ってゴメンナサイ。」

と理解した上で仕事と向き合ったほうが、より良い仕事ができる場合もあるかもしれません。

長く生きれば生きるほど、人や物事には絶対的な良し悪しは存在せず、
全てがマッチングするかしないかでしかないなということが、だいぶ分かってきました。

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