変わっていくモノ、変わっていくコト

また結構な難易度のお題ですが…笑

突然ですが、僕は結構な頻度で精神を病んでは正常を取り戻し、また病んでは取り戻しを繰り返しています。
その中で、結構ヒドめの落ち込み具合の時がありました。
4年前の冬のことです。
知人にその相談をしたところ、京都に別荘をもっていて、
「その別荘をしばらく使っていいから、京都に行ってきな」との御慈悲を受け、2週間ほど、ありがたく滞在させてもらいました。

そして、京都生活最終日前日。2015年2月15日。
最後の締めにふさわしい場所は…と考えた結果、比叡山延暦寺を目指すことにしました。
延暦寺にいけば、何かが変わるかもしれない、と。
宿から数時間かけて延暦寺に到着し、しっかりと時間をかけてお参りをしたあと、こう思ってしまいました。

「延暦寺、たいしたことなくね?」…と。

せっかく延暦寺まで来たのだからこのままでは終われないと思い、
どうせなら霊験あらたかな比叡山の山頂まで登って、霊山のテッペンから見える景色がどんなものか見てやろうと決めました。
受付のおばちゃんに道を尋ねると、
「この季節は雪が積もっていて、登るのは大変。そもそも、登ったところで、そんな良いもんじゃないよ。今から登って戻ってきたとしても、ケーブルカーの終電に間に合うかどうかギリギリだから、やめときなさい」
とのこと。
対して僕が、
「ご忠告ありがとうございます。でも、登るのは大変だということは、頑張れば行けなくはないんですよね?
山頂まで行くと決めたので行きます。登山道を教えてください」
と伝えると、おばちゃんは不安そうな顔で紙に山頂までの地図を書いてくれました。

そして僕は、そのとおりに歩き始めました。
あるき始めて10分ほどで、まず一度後悔しました。
山道に入った途端、膝まで埋まってしまうほど道に雪が積もっていたのです。
ズボンの膝から下はグショグショになり、靴の中に溶けた雪が入ってきます。
すぐに足の感覚はなくなりました。

それでもどうしてもテッペンからの景色が見たかった僕は、前へ前へ足を進めました。
そして歩くこと1時間。やっとのことで頂上に到着しました。
そこで、僕はこう思ってしまいました。

「山頂、たいしたことなくね?」…と。

比叡山は、標高848m。山としてはそんなに高い方ではありません。
しかも、山頂近くは、そこそこ広い平らな形をしていて、普通に木が生い茂っていました。
その平らな大地の中に、すこしだけポコっと高くなっる場所があり、そこにこじんまりと「比叡山山頂」の立て札が申し訳程度に立ってあるだけです。
しかも、山頂近くにはテレビ局の中継基地があり、霊験あらたかな雰囲気などとは程遠いものでした。

僕の頭の中では勝手に、京都の街や、岐阜の琵琶湖を一望することができると思いこんでいたのです。
でも、現実は全く違いました。

京都での長い長い休みの期間から、仕事に復帰する、つまり、
「現世に戻る最後の体験が、まさかのこんな感じか…」
と、肩をがっくりと落とし、
山頂でタバコを1本吸ってみたものの、全然旨くもなんともなく。
ロープウェイの終電が近づいていたので、ただただ来た道を歩いて戻りました。

その帰り道、ふと頭によぎったことがありました。

「これは、人生と同じではないか?」と。

「我々は、なにか目標、つまり山頂に何かがあると思って山頂を目指す。その気概があれば、困難な道中も乗り越えることができる。
しかし、頂上についてその景色を目の当たりにすると、想像よりもあっけないものだとわかり、愕然とする。
今まで、その繰り返しではないのか。

そして、こんなことも考えました。

「こうやって気づきを得たのは、山頂に到着して、何かを貰ったからではない。
『山頂へ登る』道中、自分で見つけ出した気づきだ。つまり、どこから何を得られるかは自分次第であり、誰かから受け取るようなものではない。
もちろん、今までもその繰り返しだ。

やっとのことでロープウェー乗り場に到着し、
ワイヤーに釣られながら山を下り、ふもとの駅についた時点でまだ明るかったので、駅から歩いて琵琶湖のほとりまで行ってみることにしました。

比叡山から琵琶湖まで、川が通っていて、その川沿いに歩いている最中。
またふと思いました。

「この川に流れる水は、おそらく数日前までは、さっき俺がいた山の上に降り積もった雪だったはず。
それが溶けて水になり、川になってここまで流れている。そして流れる先は琵琶湖だ。
つまり、雪から水になり、水が集まって流れると川になり、川が溜まると湖になる。
水自体は、ただの水の分子。H2Oだ。
でも、それが姿や場所を変えると名称が変わる。
『雪』や『川』や『湖』は、ただの『状態』であり、『システム』なのだ。
同じように、人間の体、そして会社や街や国も全部、システムにすぎないんじゃないか」と。

この思想自体は、鴨長明の方丈記での一節、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」ってやつで言ってますし、
人間の体については、福岡伸一教授の「生物と無生物のあいだ」でも書かれてます。

でも、それを、自分の体験の中で見て触ったものから実感することができたのは、貴重な経験となりました。


それ以来僕は、現世で巻き起こるすべてのことをそういった感覚で捉えるようになりました。
とどまるべきものはこの世に一つもなく、全ては無常で、変わりゆくものでしかない、と。

それらを知識として知っているだけでは、ここまでリアリティーをもって思えなかったような気がします。

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