例えば有名人が不祥事を起こしたとして、本人のSNSアカウントに直接文句をぶつけている一般のひとたちの言葉をみていると、
「正義」という免罪符があれば、人は人が本来備えている攻撃性を抑制することなく表に出すことができるのではないかと感じます。
これはとても恐ろしいことです。
もはや、「攻撃性の行き場探し」が第一目的になってしまい、標的となる罪人を選定して吊し上げたいという社会全体の欲求に押されて、不祥事を起こす人が生産されているのではないかという気にすらなります。
これは、なんとなく、根拠なく思っているんですが、
怒っているときって、
なんとなくイライラして、怒りたいと思っているところに、ちょうどよく材料が放り込まれた場合に、「よっしゃ来た!」と怒れる状態になれるんじゃないか?
…そういったイメージです。
もし、その攻撃エネルギー、イライラエネルギーの方向さえ整理して、徹底的に良い方向に向けることができれば、なんらかの価値を産むはずです。
実際、僕の周りには何人も、怒りやストレスを原動力にポジティブな活動をしている人がいます。
ただし、そんな状態ですら、ベストではないと思います。
最も良い状態は、怒りやストレス、不安といったネガティブモチベーションではなく、希望やワクワクといったポジティブモチベーションのみによって動かされる状態。
これさえあれば、怒る理由なんて必要ないんじゃないかと思います。
普通は、自分が怒ってしまった時、怒る理由になった直接的な原因、状況についてしか考えません。
もしかすると、怒ってしまったときの自分の精神状態にまで意識を広げて考えてみると、怒る理由になって原因部分は、実はとるに足らないことだったという事が、ほとんどなのかもしれません。
とはいえ、怒ること自体が悪いとは全く思わないですし、怒ることは人間にとった必要な感情だとも思いますけども。