大学時代、つまり九州芸術大学(現・九州大学)に通っていた頃の話。
僕が所属していた芸工大の芸術工学部、音響設計学科は、日本で唯一の国立大学の音響設計学科でした。
なので、北は北海道、南は沖縄から音響に興味がある学生が集まっていました。
あるとき、僕、僕と同じ音響設計学科のM、違う学科のNの三人で車に乗っていました。
Mが買ったばかりのiPodを車のカーステレオに接続し、社内で音楽を流し始めました。
M「やっぱり、mp3に圧縮すると、高音のシャリシャリ感が気になるよね」
俺「あぁ、たしかに。これは気になるレベルやわ。ビットレートにもよるかもしれんけど、これ多分128kbpsとかよね?せめて256以上はほしいよね」
M「そうなんよね…、でも、ストレージがパンパンになるから悩ましくてさ」
そこで、車内で唯一音響設計学科ではないNが発言しました。
N「自分らさ、損してるよね」
僕・M「…え?」
僕とMは一瞬、なにを言われてるのかわからず、止まってしまいました。
N「だってさ、俺は音質のこととかさっぱりわからんのよ。だから、普通に音楽を楽しむことができてたんやけど、自分ら二人はさ、音質の良し悪しがわかるせいで、音楽を楽しめてないやん。損してるよね。」
僕は、このNの言葉をきいて、何も言い返すことができませんでした。
あの日から、20年弱が経ちます。
未だに、この答えがでていません。
なにかの良さを知ることは、同時に悪さを知ることにもなってしまいます。
テレビがデジタル化したときに、タレントの肌の粗さもより鮮明になったように。
高い肉の味を知ってしまうと、もう安い肉に満足できなくなってしまうように。
認識フィルタの解像度を上げることで、良いものはより良く、悪いものはより悪く認識することができます。つまり、認識の最大振幅値が増えます。
何かを作り出す人であれば、自分の作品の価値を高めたほうが自分の価値が上がり、自分にとって得なので、認識の解像度を上げたほうがいいです。
問題は、そのジャンルにおいて特にこだわりもなく、何かを産み出す気もない、ただの受け取り手の場合です。
認識の最大振幅値を増やすことが、幸福なのか不幸なのか。