僕は、手羽先が嫌いです。
カニも嫌いですし、焼き魚、巨峰も嫌いです。
理由は、「食べにくいから」です。
ちなみに、上に挙げた食べ物は、味は全部好きです。
ですので、食卓に並んだらもちろん食べます。
しかし、自分から選択的に食べることはしません。
同じ理由で、モスバーガーにはあまりいきませんが、マクドナルドには行きます。
モスバーガーは、具が多く、肉が分厚く、ソースがジューシーなので、旨さと引き換えに、食べやすさを失っています。
はっきりいって、モスバーガーを食べやすい大きさに切り刻んで、茶碗に入れて箸で食えたらどれだけ幸せかと思います。
納豆も嫌いでした。混ぜるのが面倒だからです。
しかし、「混ぜない」と決めたおかげで、ものすごく親近感がわきました。
巨峰も、皮ごと食べ、種も飲み込むことにしてから大好きになりました。
カニは、先に食べる文だけ殻をむき、全部用意してから食べることで、面倒さを先に固めて、食べるときのストレスを軽減することにしました。
焼き魚も同様です。さきに骨をとるようにしました。
しかし、手羽先は、なかなかそうはいきません。
肉と骨を分離する行為と、食べる行為を分離できません。
歯で肉を剥ぎ取るように食べるしかありません。
くやしいです。せっかく、味は美味いのにです。
先日、友人と手羽先を食べていたら、友人の食べたあとの手羽先の骨に、肉がべったり付いていました。
肉が簡単に取れやすい部分だけ食べて、肉を剥ぎ取るのが面倒な細かい部分は食べ残していたのです。
それをみて、考えました。
そして、思いました。
僕も、こんな食べ方をすれば、手羽先に対する「面倒さ」を感じなくてすむのでは?と。
僕が、手羽先を完全に肉を残さずにきれいに食べないといけないと思いこんでいるから、面倒さを感じてしまうのだと。
完璧主義であるがゆえに、損をしているのだと。
しかし、完璧に綺麗に食べたい気持ちもあるわけです。
なぜなら、動物でも植物でも、それらを食べるときは、命を頂いているのだという気持ちがあるからです。
乱暴な言い方をすると、この手羽先になった鶏は、僕に食べられるために生まれてきたわけです。
僕は、命を食べることそれ自体を悪いとは思いません。それは、世界が定めた食物連鎖というシステムであり、自然の摂理、原理原則です。
ただ、命を奪って血肉にさせてもらう以上、敬意を払いたいという気持ちがどうしても働きます。
そんなことを言い出すと、革製品を使うな!とか、金魚すくいはどうなるんだ!
などというふうに、生き物の命を粗末にしている人間の罪深い行為は他にもいくらでもあるので、
現代社会で生きていく上で禁則事項が増えまくってしまい、ルールまみれでしんどくなりそうですので、そこまでは考えておりません。
結果がどうとかいう話ではなく、心意気の問題です。
「こう思ううちはこうしておこう」くらいの感じでいいとは思ってます。