何年前の話か忘れましたが、あれは確かちょうどこれくらいの季節だった気がします。
実家の庭に散らかった落ち葉を、何時間もかけて頑張って掃除したことがあります。
次の日、庭を見ると、もう落ち葉で散らかっていました。その時、心の底から「やってられるか」と思いました。
どうせすぐに散らかるのなら、なんで掃除などする必要があるのか。
なんのメリットがあって掃除するのか、と。
しかし、落ち着いて考えた末に、さらに思いました。
この庭掃除がなんの意味を為さないと仮定するなら、我々生き物が生きているということが、なんの意味もなさないことになります。
世界は基本的にエントロピーが増大するようにできています。
秩序から無秩序へ向かうのが世の常です。
掃除はそれを必死で食い止める行為です。
「キレイなままで保つ」行為です。
我々は、普段、倫理観や節度や規律を持って生きています。これが無秩序になると、殺人、レイプ、麻薬、その他もろもろが乱行して、生きるのが面倒な社会になります。
それを、人間全体で協力して、「キレイなままで保つ」ことができるように頑張ってます。
もし、世界がキレイなままで保つことができなかったとしても、生きるやつは生きますし、死ぬやつは死にます。
そういうものだ、で、ハイ終了です。
それでも、なぜか人間は、より気持ちよく生きようとします。庭に落ち葉がないほうが気持ちがいいということと同じように、です。
ここで結果を求めだしてしまうと、とたんに全てが意味のないものになります。
一切の結果に囚われることなく生きるというようなことは、果たしてできるのかなぁなどと、最近考えています。
今現在の未熟な僕は、まだまだ結果が気になってしまいます。