認知

最近、息子の虎之介がだいぶ喋るようになってきました。
絵本のやおもちゃに書いてある犬のイラストをみて、
「ワンワンだー」とか、猫をみて「ねこさーん」、牛をみて「モーモーさん」、救急車を見て「ピーポーピーポー」などと言ってます。

まず、この時点でなかなか凄いんですが、
さらに凄いのが、実物の犬をみても「ワンワンだー」と認識してますし、
救急車を見て「ピーポーピーポー」と言えること
です。

つまり、デフォルメされたイラストと、実物そのものが、同じ種類のものを指し示していることが理解できているということになります。

さらにビックリするのが、色んな種類の犬に対して、ちゃんとそれら全てを犬と認識できていることです。
つまり、しっかり抽象化して記憶されているということです。

例えば、僕が生まれて一度も犬や猫を見たことなかったとします。
そして、目の前に柴犬とブルドッグと三毛猫の三匹がいたして、柴犬とブルドッグを「犬」へ、三毛猫を「猫」へカテゴリ分けができるかと言われると、ちょっと自信がありません。


もうひとつ。
仕事がら、僕は家を留守にすることが多いのですが、最近、
普段僕が寝ているベッドを指差して、「お父さんいないねー」と言うらしいのです。
これにもかなり驚きました。

目の前の対象を指して、それが何であるかを認識するより、
無いものを無いと認識するほうがレベルが高いことだと勝手に思ってます。
同じ空間において、頭の中だけにしか存在しない記憶の中の過去の風景と、現在いまここで目に入る風景を、頭の中で比較するというプロセスが足されていることになるからです。


ついでにこれも。
遠くから救急車の「ピーポーピーポー」という音が聞こえると、ほぼ間違いなく「救急車だ」と言いますし、
空に飛行機が飛んでいると指差しますし、遠くで電車が通るときも同様です。
僕や妻は、虎之介に比べて、それらの乗り物に気づくのが必ずワンテンポ遅いです。
ここで言えるのは、大人になると、無意識のうちに自分に必要のない音や風景を間引いて、圧縮された状態の視覚情報、聴覚情報として認知しているのだということです。

先日も、いつも車で通る交差点で赤信号で止まっていたら、虎之介が「電車」といいながら指差しました。もちろんそのむこうで電車が走っていたんですが、
何百回と通ったことがある道なのに、その交差点から線路が見えるということに一度も気づいていませんでした。
普段周囲に気を配ってしっかり見ているつもりでも、全然見れていないんだなと。


子供はHDD容量がガラ空きなので、RAWデータのままバシバシ保存してるのに対して、
年を重ねると、記憶容量や処理速度が下がる分、情報の圧縮率を上げ、いらない情報を軽減して記憶領域に情報を保存していくようになるというようなイメージなんですが、
おそらく、削るべきではないものもガンガン削ってるんでしょうね。

それら削られたデータたちに執着することが、果たして良いのか悪いのかはよくわかりませんが。


こんな感じで、子供と一緒に過ごすと、普段当たり前だと思っていることを一度まっさらにして考え直すことができるので、めちゃくちゃ楽しいです。

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