4年に一回憂鬱になる時期があります。
それはオリンピックの時期です。
僕は、オリンピックに興味をもてません。
そんなことを綴った過去のツイートを何個か。
この切なさを分かってもらえる方がどれだけいるのか…という感じですが、とにかく、オリンピックシーズンの疎外感は気持ちのいいものではないです。
ちなみに昔は、「みんなと違うこと」がステータスだと思っていた時期もあります。
「オリコンチャートの曲、全然知らんし」
「俺、テレビほとんど見らんのよねー」
「オリンピック?興味ないし笑」
こんなクソみたいな無価値なセリフを、かっこいいと勘違いしていた時期もありました。
自意識が暴走して、みんなと違うという事実に価値を感じる、若気の至りですね。
B型の悪いところが出ているとも言えます。
しかし、歳を重ねていくに連れて、「知らないこと」や、「興味がない」ということが、全くの無価値だと気づきます。
もちろん、世界の全てを知るのは無理なので、知らなくていいことも多いんですが、知らないこと自体が1ミリもカッコいいことではないという事実…
さらには、それをカッコイイと思いこんでいる事がどれだけ隠しているつもりでも相手にはまる見えで、それがどれだけダサいことなのか… 気づいてしまいます。
そうなると、今までカッコイイと思っていた自分自身を、自分自身が全否定をはじめます。
一番の味方だと思っている自分自身から否定されるのは辛いわけです。
そうなると、オリンピックの時期は単純に地獄です。
興味を持てたほうが絶対に楽しいと分かっているのにもかかわらず、自然に興味を持つということは無理ですし、
かといって努力して興味をもつようにしようと思っても、人間なかなか続きません。相当な覚悟が要ります。そこまで根性を注ぎ込むほどの余裕を持てたことがありません。
本日、平成から令和になりました。
この一生に何回来るかっていうお祭り騒ぎに対して、僕はかなりワクワクしています。
SNSを眺めていても、しつこいくらいに「平成最後の〇〇」とか、「令和初の◯◯」なんていうワードを目にします。
それに対して、普通に、頑張ることなく、テンションが上っています。
改元イベントを、無理せず心から楽しんでいる自分がいます。
単純に、嬉しいです。
自分が社会的マイノリティーであり、かつ社会不適合者である事実を、
10代では気づいておらず、
20代では自意識を支える燃料としてポジティブに利用し、
30代からはコンプレックスが顔を出し、
30代後半で、コンプレックスを持つ自分や、たまに生じる自意識すら認めて、そのままの事実として悲しみもせず喜びもせず受け入れられるになったように思います。
…それも、ここ1年くらいでです。
今日は、ただただ社会に適合して、社会のみんなが思うように僕も令和元年を楽しみ、喜ぶことができました。
たったそれだけが、嬉しいです。