大人の理論は所詮後付け説

上京してから約5年、31歳の誕生日のときに書いた文章です。
わかりにくい部分や挨拶部分は一部改変してます。


[プラットフォーム]:Facebook
[投稿日時]:2012年8月22日

(前略)

30歳は、マジに怒涛の一年でした。

テレビ番組の音楽制作をレギュラーでやらせてもらったり、
過労とストレスで頭がおかしくなって両親が東京に来たり、
思いつきで北海道いったり、
バイク買ったり、
引越したり、
髄膜炎になって入院したり、
ベンツ買ったり、
そのほか、本当にいろんな事がありました。

今思い返すと、30歳という歳は、20代で得てきたものを自分の中で消化し、整理整頓し、いかに効率良く引き出していく事ができるか、そんな事をテーマにやってきたように思います。
とりわけ、「正しく誠実であるか」「いかに効率的か」。
大きくいうと、僕の頭の中はこの2つが大部分を占めていました。
ただ、最近ちょっと気づいたんですが、正しく誠実であることは、本当に正しいことなんでしょうか。効率的であることは本当に効率的なんでしょうか。

経験を重ねて、色んな人の色んな価値観に触れていくたびに、「正解や不正解がなくなっていく」という感覚があります。
子供の頃は、「アレは悪いこと」「アレがかっこいい」「アレに勝ちたい」「アレが好き」、そんな簡単な価値基準でしたが、
大人になると、「アレは凄いけど好きではない」「アレはかっこわるいけどそれが逆にかっこいい」「アレは確かに悪いことだけどある意味しょうがないし、いちいちそんなこと考えてたら疲れるから考えないことが正解」・・・エトセトラエトセトラ。
複雑化極まりないです。
つまり、どんなことでも、大人の理論とテクニック、ディベート能力を使うと、強引に論理的に正解・不正解、どちらにでも持っていけるようになります。
たとえ他人を納得させられなくても、自分くらいは簡単に騙せるでしょう。

効率化の話でいうと、ずっと責任を背負って仕事をしていると、より小さな力で最大限の効果を産むことを考えるようになります。これはとても素晴らしいことだと思います。仕事をする上では、そうでないといけない。
ただそれと同時に、効率を上げれば上げるほど、もがいたり、悩んだり、立ち止まって試行錯誤する時間の中でいつのまにか得てきた、言葉にならない色んなものを捨ててしまうこともあったりして。

もう、頭で考えても、何が正解かよくわからないんです。

東京に来てから約5年になります。
その頃は今の状況など、微塵にも想像しておりませんでした。
先日、たまたま上京する直前までやっていたバンドの音源を聴く機会がありました。
今聞いても溢れんばかりのエネルギーに正直、我ながら圧倒されてしまいました。
今でも分からないことだらけですが、当時はもっともっと分からないことだらけだったはずです。ただ、今あれをやれと言われると、到底できる気がしません。
ずっと右肩上がりに成長していたつもりだったんですが、得るものあれば失うものもあるというわけで。
そこで、ふと「5年前の自分が、今の自分を見た時に、どう思うのだろう」と、考えてみたんです。
その時に、色んなモヤモヤが、すっと晴れた気がしました。

大人は、「思いたいように思える」けど、子供は、「思いたいようにしか思えない」んじゃないか?
大人の理論は、所詮後付けなんじゃないか?
過去の人生、今の状況、自分にとって楽な選択肢、いろんな事を都合よく強引に自分にとっての正解にしてしまっていないか?と。

まあ、いつもそんな事ばかりを考えていても疲れるだけですが、
一年にほんの何度かは、本当に子供の心になって、自分と向き合ってみるのもいいんじゃないかと思ったんです。

ということで、前置きが長くなりましたが、31歳の抱負を決めました。
「カッキくなる」でございますですハイ。

(後略)


以上です。
(ブログの全記事を読んでくれてる人なんてどうせいないと思うので、)何度もいいますが、今年の僕の抱負は「煩悩と徹底的に向き合う」です。
それは、「大人の理論は、所詮後付けなんじゃないか?」という疑問に対して立ち向かう行為でもあります。

6年半前の自分は、
「いつもそんな事ばかりを考えていても疲れるだけですが、
一年にほんの何度かは、本当に子供の心になって、自分と向き合ってみるのもいいんじゃないかと思ったんです。」
…って書いてますけど、今年は、それを常にやろうとしてます。なんなら、それが今年の生きる目的だったりします。

今は、自分の煩悩が最も手強い敵です。
今年に限っては、「カッキくなる」ことはできなくてもいいから、むしろ「カッキくないを認め知る」を試してみようと考えています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です