サディズムとマゾヒズム

サディズムとマゾヒズム。
これらの本質は、実は同じなんじゃないかと考えています。

その共通する源とは、「背徳感」ではないでしょうか。

つまり、「えっ、こんなことやっちゃっていいの!?や、やっちゃうよ?」であると。
で、その背徳行為の対象を他人に向けたものがサディズムであり、
他人に向けてしまうと罪悪感があったり、共感性が高く、人が痛みを感じるのが耐えられない方が、仕方なくその矛先を自分に向けたものがマゾヒズムなんじゃないか?という気がしています。
証拠はありません。そう思うだけです。

さらに考えてみます。

じゃあ、背徳感の源って何?ということです。
これも、証拠はありませんが、何となく僕が考えるに、ですね、
背徳感の源は「非日常性」ではないかと。
つまるところ、「飽きている状態」を打破したい状態です。
「飽き」を壊す為の刺激が攻撃性を帯びると、SMになるのでは?と。

では、なぜ飽きている状態を打破する必要があるのでしょうか。
これもまた妄想でしかありませんが、僕が思うに、現状維持機能をぶち壊すためのシステムなんじゃないか、と。
つまり、生活の中に突然変異的に刺激をブチ込みたくなるような機能が備わっているのではないでしょうか。

人類全体が現状維持を目的にして生きると、多様性が生まれにくいですよね。
ですので、人類の一部、または生活の一部でもかまいませんが、突然変異的な行動をする人間が存在する必要があると思います。
もっと率直に言うと、人類には「変態」もしくは、「変態行為」が必要不可欠です。

昨今、多様性という言葉が市民権を得てきました。イコールそれは、「変態の時代」ともいえます。
変態たちよ、今こそ輝けるときです。

ビバ変態。

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