なぜブログをはじめたのか(後編)

前回の続き。

前回の記事はこちら↓
「なぜブログをはじめたのか(前編)」

【前回まとめ】
・「自分の生きた証」を閲覧できる状態で残しておきたい
・数あるプラットフォームの中で「ブログ」を選んだ理由は、最も流行り廃りの影響を受けず、普遍的なものにしたかったから

なぜ、自分の生きた証を残したいのか?

さて、ではなぜ、自分の生きた証を残したいと思っているのか、考えました。
確かに、僕は昔から異常なほどライフログをとることに執着があります。

  • 例えば、2003年から今までの全ての送受信したEメールを保存しています。
  • PCで作った成果物のデータは全て保存しています。
  • 一時期、食べたものを全て写真に撮って、飲食店の位置情報とともにEvernoteに保存していました。
  • Moneyforwardというクラウド家計簿サービス有料版を使い、クレカ、銀行の入出金データ、電子マネー決済の履歴を全て閲覧できる状態にしています。
  • Twitterに、なるべく多くの出来事や思想を書き残し、よく検索して見直します。例えば、タバコを吸い始めたのが何年何月何日だったか、すぐに調べられます。さらに、表立って言えない事はフォロワー数0人のサブアカに鍵をかけて、備忘録として残しています。
  • 行ったイベントのチラシは、捨てる前にできる限りスキャンしてEvernoteに保存しています。
  • 神社で引いたおみくじは、木の枝に結ぶ前にスマホで写真をとります。
  • 自分が行った場所のGPSデータをスマホを使ってGoogleマップに365日24時間保存する設定にしています。

これ以外にも、数え切れないほどのライフログを残しています。そして、その99%は、見返しません。
こうやって羅列しながら、自分でもゾッとしています。気持ちわりぃ。

では、なぜ自分で気持ち悪いと思いながらも、データをせっせと集めているのか?
それは、僕の中のもう1つ根本に近いレイヤーの欲求に関係があります。
その欲求とは、「人間とは何かを知りたい」というものです。

つまり、人間とは一体どういう生き物で、どういう時に何を考え、どういう感情になり、何人程度の何を目的に集まった集団全体にどういう刺激を与えるとどういう行動に出るのか?
…などという事を、ただただ知りたいのです。
これが僕の生きる目的と言っても過言じゃありません。今までの活動も、これからの活動も、全てはここに集約します。
だから、僕はよく人の話を聞きます。特に、人生が大きく変わったり、人格に影響を与えたような出来事の話を聞くのが好きです。他に類を見ないオリジナルな体験であれば、なお好きです。
もちろん、誰かと対話をしているとき、相手を一人の人間として興味を持っています。
ただ、それとは全く別の人格の自分がメタ的に自分の頭上にいて、頭上の僕は白衣をきて、手帳にメモをとりながら、
「ふむふむ、なるほど、人間面白い。」
などとブツブツ言っています。そして、その興味の対象はもちろん例外なく自分にも向けられています。
自分は、全ての人間の中でも特殊な存在です。なぜなら、全人類の中で唯一、感情や思考を覗けるので、情報量が圧倒的に多いからです。
また、白衣の僕はコントローラーを握っていて、たまに実世界の僕を自在にコントロールします。
その行動原理はいたってシンプルで、「最も興味深く新鮮なデータが取れそうな行動をとらせる」です。
言い換えると、「実験」です。
よって、たまに自分でもビックリするような決断をし、ときには人生があらぬ方向にシフトチェンジしたりします。
それにより、実世界の僕はときに死ぬほど、これはマジで比喩抜きで”死ぬほど”辛い経験をします。もちろん、こんな面白いモルモットがギリギリ死なない程度に。

ということで、データが大切なのです。たとえ99%は消えてなくなる無価値なデータであっても、人間の研究に役立つ1%のデータがある”かもしれない”だけでいいのです。
たぶん。

さて、ここでもう一つ掘り下げてみたいと思います。

なぜ樋口は、「人間とは何か」を知らないといけないのか?

これです。これがずっとわかりません。いまだにわかりません。
ただ、一つだけ、わからないなりにぼんやりと頭に浮かぶことがあります。
それは、「聖典」という僕の名前に由来します。

まず前提として、樋口家の家系は代々、浄土真宗をゆるく信仰しています。
おそらく日本で最もマジョリティーな宗教との向き合い方をしています。
熱狂的に信仰しているわけではなく、おばあちゃんの家に仏壇があり、たまにお寺さんに行く程度って感じです。

そんな父親が僕に「聖典」と名付けました。
聖典とは、ご存知の通り、聖書という意味です(厳密には聖典と聖書という言葉は宗教ごとに使い分けられてるっぽいですが、ここではあまり気にしません)。
…うちの父親、だいぶカマしてますね。普通は自分の息子にこんなたいそうな名前つけないでしょう。
おまけに弟は「太陽」なので、初対面の方に二人で自己紹介するとよく、「親御さんは宗教家ですか?」などと言われます。全く違います。田川郡川崎町で樋口建設という建築業を営んでおります(まだ現役なので仕事ください)。

20代のある日、どうしても気になって父親に自分の名前の由来を聞いてみたことがあります。すると、
「聖書という意味があるということを知らずにつけた。字面と響きがよかった」
とのこと。つまり、偶然でした。
しかし、僕は根っからの運命論者でして、偶然などこの世に存在しないと思っています。自分にこの名前が付けられたのは、何かしら意味がある、と。

なぜ自分は聖書と名付けられたのか?
もしくは、聖書と名付けられた自分はどういう性質を持つようになったか?
…そう考えると、今までのデータ収集癖が理解できるようになり、さらにはそれ以外の自分の性質とも結びついてきました。

例えば、
僕は、具体的な事象をもとに帰納法的に一般化された公式を導き出すのが好きです。
また、言葉に興味があります。
また、同時にいくらでも複製でき無劣化で拡散できるデジタルデータが大好きです(この話をするには、僕の持論である「言葉はデジタルだ」という思想の説明が要りますが、ここでは割愛)。
また、人間としてプラットフォームになりたいと考えていて、いかに自分が無色透明になれるか考えています。
また、出会った人や本にかかれている思想を自分にインストールして、多くの人に伝え広めていきたいと思っています。
また、世界を常に無感情で客観的に捉えている自分がいることを知っています。

なんか、探せばまだ見つかりそうです。
ちなみに余談ですが、現在僕は株式会社BOOKの代表を務めておりますが、これにTHEをつけて「THE BOOK」とすると聖書という意味があるそうです(ちなみに社名を付けたときは知らなかった)。

なぜブログをはじめたのか

だいぶ回り道をしましたが、結論です。
僕がブログをはじめた理由を一言で言うと、「聖典を作りたかったから」です。
この一文だけ見ると、なんかヤバいと自分でも思いますが、
本物の聖書ほど影響力はなくても、内容がまとまってなくても、真理をついていなくても、データとして活用できなくても、
せめていつか死ぬ前のどこかで、一人でニヤニヤしながら見返して、
「昔の俺は意外と良い事言いようやん」とか「こいつまだ何も人生分かってねーわ」とか思うだけでも十分価値はあると思っています。

ってことで、無理せず、適度にサボってダラダラとライフログを残していければと思います。

以上、なぜブログをはじめたのか?でした。

なぜブログをはじめたのか(後編)” への3件のフィードバック

  1. 面白い!!!
    人間っていう生き物って面白いもんなー!
    また見に来る!

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