ただ、そうであるだけ

6年前、2013年5月4日にツイートした文章を紹介します。
この頃の苦悩を大体言い表していて、この時のことは、いまでもよく思い出せます。


【以下、引用】

自分の考え方や決断は、善意、悪意、信念、柔軟さ、厳格さ、曖昧さ、サディズム、マゾヒズム、愛、嫉妬、心地よさ、執念、その他エトセトラの因数の倍数になっていて、できる事なら(素数かどうかの区別ははっきりついてないが)素因数分解して悪玉因数を除去したいと強く願う反面、
やりすぎて人間味を失ってしまうことを危惧する自分も同時にいる。

とにかく、時を越えて絶対的に信頼できると思えるものが無い。一度心の底から信じた価値観すら、時が経てば簡単に塗り替えられる。
勝利はもちろん、正義、美しさ、幸福などに対する信頼も、もはや絶対的なものではなくなった。

ある時期はよりシンプルである事を望んだ。
そしてその次は、混沌を全て飲み込みそのまま受け入れる事を望んだ。
次は、シンプルと混沌が表裏一体、区別がない事に気づき、理解すればするほど拠り所が消えていくのを感じた。

ただし、そうやって地を這い、悩み苦しむ自分と同時に、
一つ上のレイヤーから「とことん苦しんでとことん楽しんだらいい。お前の人生なかなか面白えじゃねえか」と楽観…というより、達観している自分の存在もはっきりと認識している。

でも現実世界で生きる上で毎日無数の決断をしていて、どのレイヤーの自分を使うかでいくらでも結果が変わる。

これは言わば多重人格だ。自分と自分が乖離して争う感覚。
でも、さらに上の自分が「それも面白え」と無責任に軽く言い放ち、さらにその上の自分が「快楽に生きれば?」などとまた無責任に言う。層がどんどん上下に増えて行く感覚。とても制御できない。
できなくて当たり前だが。

これ以上の事を言葉で考えるには、自分はあまりに語彙が少なく、文章力がない。
制度の悪いAD変換で感覚を言葉にして、その言葉に縛られるくらいなら、感覚を感覚のままで処理する方がまだマシ。

現時点の目標を無理やり言葉にするなら「考えるな、環境に従い、直感を信じろ」だ。これを過去も未来も考えず即興的にやること。
ただしこれには環境をある程度のバランス感覚をもって調整する力と、直感を信じ切り、それによる失敗を全て受け入れる覚悟が要る。

直近の課題はその辺にあるのかも。

【引用おわり】


以上です。

冷静に客観的に書いているように見えますが、心は荒み、迷いだらけで、答えが見えないストレスをずっと抱えて不健康でした。

6年経った今はどうかといいますと、複雑さは相変わらずです。
しかし、この時は、複雑さに対して思い悩んでいたのに対して、今は、複雑であることをそのまま良しとしているような感覚です。

『これは言わば多重人格だ。自分と自分が乖離して争う感覚。』とありますが、この感覚なんてのは、今でもそのままあります。
しかし、今は、「別にそれでよくね?」と思っています。

そう考えると、自分が今置かれている状況なんて、全てがどうでもいいのではないか?という気になってきます。
だって、同じ状態でも、時期によってポジティブに捉えることもあれば、ネガティブにとらえてしまうこともあるわけです。

そんなことを毎日毎日ずっと考えてきた結果、恐怖という感情がどんどん無くなってきました。
正直なところ今は、自暴自棄といった変な意味ではなく、ただただ冷静に考えても、
自分の体の外にあるものなら、何を得ても、何を失っても、生きていける自信があります。
ある意味、危険な状態といえば、そう言えるのかもしれません。

ただ、そうであるだけ” への1件のフィードバック

  1. 樋口さん。
    昨日、全く同じような話を聞いて、私も合点がいきました。
    自分の中のもう1人の自分という存在が、一番信頼できる友だちなんだそうです。
    その存在と上手に付き合い、行動していくことができれば、もう、最強になれるんだとか。
    樋口さんは、もう、出会えているのですね。
    この話って、深い人には深く、意味わからんし、という人には全く響かないと思います。
    なんでもそうですよね。
    どんなに何百回も話しても、響かない人には猫に小判。
    この話って、わたしと樋口さんの共通のあの人に響いてくれたら、最強になること間違いなしなんですけどね。

    昨日、話してくれた人も、そう、言っていました(笑)

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